内容
本書は ボストン大学のメリー・ホワイト教授(略歴)が、日本のコーヒーの歴史と文化についてまとめたものです。もとは表紙にもあるとおり、”COFFEE LIFE IN JAPAN”として、2012年に英語で発表され、2018年に入って、日本語訳が行われました。
第一章では、日本の都市部にある典型的な喫茶店の一日の様子やどのような人が利用しているのか、そしてその喫茶店にどのような空間的な役割があるのか、等について丁寧に紹介するところから始まります。日本人からみれば、ごくありふれた風景だったり、何となく肌感覚でわかっているものかもしれません。しかし、海外の人から見れば、そこにはどこかしら新鮮なものがあるのかもしれません。そして、私たち、日本人にとっても海外の視点を通して文書にされると改めて気づくものが沢山あるような気がします。
第二章では、コーヒーの伝播の歴史、そしてどのように日本へ紹介され、今のように日本化されていったかが書かれています。その中で特に強調しているのが、日本の一般的な飲み物としてコーヒーが受け入れられていること、そして世界的なコーヒー消費の中で、日本が統計的・人材的にいかに重要なポジションを担っているかにも触れつつ、日本のキープレイヤーとの会話やインタビューを紹介しています。その描写からはご自身がいかにコーヒー好きかもよく伝わってきます。途中、少しバイアスがあるような日本と日本のコーヒー文化への傾倒には日本人としても驚くことが多いかも。
第三-六章では、自身の日本研究センターで客員教授をしていたときのフィールドワークをもとに、日本(京都と東京が中心)の多岐にわたるコーヒー人材やショップについて紹介しています。
そして、最後の二章では、日本における喫茶店の持つ空間的意義を、都市機能から、そして人から見た場合等、いくつかの視点をもってまとめています。
この本は海外のコーヒー通に読まれることもあり、近年どのように海外で日本のコーヒー文化が語られているのかを知るのにとてもよい一冊だと思います。
感想や本をきっかけに考えたこと
コーヒーの歴史を目撃者のように紐解く
日本ではここ数年、何度目かのコーヒーブームが到来していると言われています。そして、そんな日本のコーヒーが海外からも多く注目を集めていることは、ネットで”Japan coffee culture”等で検索すると沢山の記事が出てくることからもよくわかります。しかしながら、研究者が日本のコーヒー文化について語ったものは多くありません。この本は数少ない研究書ともいえるでしょう。さて、その内容ですが、結構なマニアックなものになっています(笑)。日本人が読んでも、コーヒーに興味がない人にはハードルが高いのでは?、と思うほど。
中東から始まったコーヒーに関する文化、トルコ、オーストリア、フランス・イギリス等へと伝播。そして生産地の各地への広がり。それらが交差する場所としての日本へ伝播する様子を紹介。その後、日本がどのようにコーヒー文化を受け入れ、取り込み、独自に発展させていったか、系譜をたどりながら、京都・東京のコーヒーショップとそのマスターたちを丁寧に愛しむように紹介する様子は、社会学者以上に、生粋のコーヒーラバーといえる著者ならで読みごたえがありました。
日本ならではの多様なコーヒー文化
そして、その著者が考察する日本におけるコーヒー文化。その役割は多岐にわたるといいます。西洋の文化がどっと流入した大正時代、西洋文化の流入とともにモダンガールたちの間には、ボブカットが流行。その女性たち揶揄して”毛断嬢(もだんじょう)”と呼ばれました。彼女たちが働いていたのは流行のカフェ。それは情報発信するファッションリーダーであり、羨望の的のアイドル。
また、とあるカフェは地方出身者のオーナーによって運営され、地方から上京してきた若者たちがその土地の文化・風習を学ぶ場所であり、地方人が支えあう場所となっていました。さらにとあるカフェは文豪が意見交換をする場所だったり、芸術作品を展示して気に入った人とがその後援者となるような場所となっていたという。
それらさまざまなカフェ文化は、戦争時に停滞を迎えますが、戦後復興期には代替品を使ってでも一息つける場としてしっかり息をしていたといいます。その後、カフェは戦争という悲劇を乗り越え、さらなる発展をしていきます。高度経済成長期には歌声喫茶やジャズ喫茶、そして若者たちのたまり場へと。
彼らが大人になると、その空間は一人で安らげを得られる場所としても機能するようになったといいます。特に都市部のカフェは空間的な狭さ、会社社会の特殊性からそのような機能が特に求められたといいます。居酒屋よりも時間的な高速が少なく、スケジュールの時間を埋める(P50)。それはオルデンバーグの語る『サードプレイス』の機能的な栄枯盛衰の描写とは異なるものでした。機能的空間が利用者によってどんどん変わっていくさまについて、オルデンバーグとは異なる解釈を与えてくれます。
サードプレイスと本書
改めて、本書はレイ・オルデンバーグの『サードプレイス』を大いに意識したものだと思います。実際、本書の中でもオルデンバーグについて紹介・触れています(P42)。『サードプレイス』では触れられなかった日本の喫茶店文化ですが、ここではその空間的な役割等に関する詳細な記述があります。そして、日本でもインフォーマルでありつつも、分け隔てがなく人々を迎え入れ、そして議論が活発に行われていた様子も描かれています。ただ、現状、そのような昨日は一部日本の田舎には存在するものの、都市部は異なる場所になったとも指摘しています(p40-42,50)。
また、オルデンバーグが彼の本の中で触れなかった日本のサードプレイすとしての喫茶店、そしてその中での男女の役割やそれぞれにとっての恩恵等について触れていて、大いに補完されているといえると思います。その意味で、『サードプレイス』のサブテキストとも、メインテキストともなりうる一冊。日本人にであれば、コーヒー好きのみならず、幅広い層にお勧めできる本だと思います。
読むうえで注意が必要な2,3のこと
この本を読むにあたって気をつけたほうがいいことがあると思います。まず、この本は2012年に発表されたものがベースとなっているので、日本の喫茶文化についてはその辺の情報までということを認識する必要があると思います。というのも、2010年代は日本にスターバックスが登場した19990年代と同じくらい大きな変化があった年だと考えているからです。
このころ、日本ではまだスターバックスが話題の中心で、スペシャリティコーヒーという言葉は一部のコーヒー通の間で使われていた言葉だったと思います。その後、ブルーボトルが上陸すると、スペシャリティコーヒーという言葉は、サードウェイブとセットで一般の人たちにも知られるようになりました。ブルーボトルの上陸と前後してシングルオリジンのスペシャリティコーヒーを提供する多くのインディペンデントなお店ができました。すると、昔からスペシャリティコーヒーを提供していた老舗喫茶店やコーヒーショップにも再び脚光が当たるようになり、カフェ・喫茶店ブームの再燃になっているような気がします。それが2010年代の動きで、そしてこの本の出版のあとにできた動きだと思います。
また、ホワイト教授が日本におけるスターバックスの展開についてあまり触れていないことも気になります(言葉としてはでてきますが、日本における普及についてふれることは消極的に思えます)。確かにシアトル発で、日本でのコーヒー文化とは馴染まないかもしれませんが、今やスターバックスが日本におけるコーヒーチェーンのリーディングカンパニーであることは間違いなく、また、最近の日本のスターバックスの先鋭的、かつ個性的な店舗戦略で他のコーヒーショップにも間違いなく影響を与えるからです。まぁ、それも含めてホワイト教授の日本の滞在時期や出版タイミングと思いつつ、読めばいいかと思います。
あと、これはテクニカルなことなのですが、引用や出典の記述が日本語化されたものに限定しているのと、本文中に引用数字がふられていないのでよみにくいかも。ただし、これは堅苦しさを排除しようという現れかなともとれます。ただ、オルデンバーグの『サードプレイス』は追記したほうがいいような気がしますが。。最後に統計データについては引用元がかかれてないのも残念かも。
ホワイト教授が今再度本を出版することになるとしたら、テクニカルなところはさておき、上述した部分については大幅な加筆・修正をするんでは、と思います。
ただ、それらを差し置いてもこの本は日本のコーヒー文化を改めて知るのにとてもよい本だと思います。
雑な閑話休題
この本の中で各地域のブレンドの抽出について記載がありました。少し興味深かったので紹介したいと思います。これに限らず、いろんなコーヒーショップの秘密というか秘訣がいろんなところに散りばめられた一冊なので、そういうことが好きな方にはぜひおすすめです(いったいどのことなのでしょう・・。)
大阪の好みは一カップあたり最大十六グラム、コーヒー粉を二度に分けて淹れることもあり、最も濃厚である。名古屋では中煎りが好まれ一カップあたり十三グラム、京都はそれより濃い目で十四グラムが望まれる。東京では焙煎度は浅いほうが好まれ、一カップあたり九グラムか一〇グラムほどである。比較してみると、東京のコーヒーはアメリカとほとんど同じである。アメリカは各地によってそれぞれだが、スペシャリティではないコーヒーの平均は約二三七ミリリットルのカップあたり八グラムのコーヒーである。もう一つの大量消費国であるドイツは、六グラムから一〇と範囲が広い。ベートーベンは数字を気にする人だったようで、約一七七ミリリットルのコーヒーカップに、挽いたコーヒー豆六粒で淹れたかなるの濃いコーヒーを好んでいたという。
メリー・ホワイト『コーヒーと日本人の文化誌』,2018,創元社 p.139
かなり詳細に各地の抽出量について書かれています。、最近の抽出に比べるとかなり薄めなんじゃないかなと思います。従来より、日本の喫茶店は薄いといわれていたのは確かだと思います。それが焙煎よりも抽出量によったものということの証左なのかもしれません。そんなことをこの文章をみて思いました。にしてもベートーベンに思いをはせながら飲む薄口コーヒーもなかなか趣深いものがありそうです。