【本紹介・感想】戦争でも人物でもなく、飲み物から見た歴史『歴史を変えた6つの飲物 ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語る もうひとつの世界史』

大航海時代と効率化の象徴、蒸留酒

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今日のアルコールという単語の起源はアラビアの錬金術師の実験室にあるという。ワイン等を蒸留した結果、手に入る強い酒の精製方法は長らく、その起源であるアラビア人によって秘伝として守られていた。一方、西洋でも古くから蒸留に関する知識は知られていた。アリストテレスは塩水を沸騰させ、その蒸気は塩っ気がないことを知っていた。ただし、アルコールの開発には結びつかなかった。

大航海時代に入る前、アラビア勢力によって独占された東インド諸島貿易。これに対抗するために始まった西へと展開する大航海時代だが、大きく貢献したのが、アラビア人の蒸留知識とアフリカの労働力だった。

当初は、アフリカの労働力を得るための対価として綿織物や工芸品と共に、ワインがよく交易品目に選ばれていた。しかし、ヨーロッパに蒸留酒の製法が普及すると、ワインに比べてアルコール濃度が高く、少量で酔えるブランデーに人気が集まった。また、ワインと比べてブランデーのほうが長期保存がきくという利点もあり、貿易商たちはブランデーを交易品目(経済財としても注目)として扱うようになった。

後にアフリカでは、 『貴重なのは布地、誉れ高いのはブランデー』と言われたほどにブランデー需要が旺盛になっていく。

その後、新大陸アメリカからの船がからになるのを嫌った貿易商たちは、カリブ海で生産されていたサトウキビの生産過程の廃棄物から作られるラム酒へと注目した。キルデビル(悪魔殺し(日本でいう、日本酒の鬼殺しと通じるところがありますね。やっぱり、怖い人たちのご機嫌を取ることは東西問わず、重要だったのでしょうか。。))と呼ばれるお酒が最初現地で飲まれていて、暴動が絶えない地域だったが、この酒は貿易商が現地の住民、船員を手なづけるのに不可欠な酒だった。そして、これが現地住民、船員と広まり、アフリカにも普及するようになると、大西洋のバルバドスは砂糖だけではなく、ラム酒の供給でも発展していった。これにて三角貿易となる。

ワインから蒸留酒に交易品目が変わるとアメリカ大陸との三角貿易は更なる高収益事業となり、ヨーロッパ諸国による植民地開拓はさらにすすむ。その結果、課税および管理方法が中央政府を動かすようになっていた。

一方で、開拓事業が進んでいたアメリカ現地においては開拓者たちのアルコール確保は重要課題だった。一日の労を癒すアルコールは安価でなくてはいけない。しかし、宗主国のイギリスはこの仕入れ先や原料について自国に有利なようにコントロールしようとすると対立が生じた。

イギリス政府が英仏戦争で追った負債に苦しむようになると、アメリカ開拓者に対して糖蜜法、砂糖法と制定して引き締めを強化したものの、現地の反発を招くこととなり、後の独立戦争の遠因ともなった。ちなみにアメリカにおいて、当時の抗議活動の拠点として蒸留所や酒場が使われてもいた。

ちなみにラム酒の輸送コストの高さは徐々にアメリカ独自の蒸留酒を生むことになる。スコットランドとアイルランドの移民はウィスキー精製を行うようになり、連邦政府の課税を嫌った人たちがさらに内陸部ケンタッキー州へ行き、とうもろこしを原料に作ったのがバーボンウィスキーの発祥である。

一方、この開拓時、アメリカやメキシコの先住民との交渉もこの蒸留酒が使われるようになったため、現地で飲まれていた低濃度アルコールはその地位を奪われてしまった。

酔わずに仕事と創作に集中できる、コーヒー

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By Bodleian Library, University of Oxford – Bodleian Library, University of Oxford, Public Domain, Link

17世紀初の欧州で一番飲まれていたのは、朝食の席でさえ、弱いビールか水で薄めたワインといわれている。いずれを飲んだ場合も酔いが生じて農作業を行う分にはそれでも何とかなるかもしれないが、デスクに向かう仕事には非常に不向きだった。

アラビア半島から、コーヒー文化がヨーロッパ(どのようなルートでイギリスに上陸したかは説がいくつかある)に紹介されると、その珍しさから上流階級を中心にまずは広がる。 当時のコーヒーは今のものとは違い、一度大量にコーヒーを抽出して樽に保存、その後温めなおすというのが一般的だった。この味について、初めてコーヒーを飲んだ人の感想は、日本人のそれと同じく、一般的には受け入れがたかったそう。ただ、それも飲み始めると徐々に馴染んでいくようになる。とにかく、アルコールを伴わず、覚醒作用があるコーヒーはデスクワーカーにはぴったりの飲み物だった。

17世紀中頃から終盤にかけて、オーストリアやフランスではカフェが街にみられるようになり、イギリスでもコーヒーハウスが流行する。とくにイギリスでは政治議論の場になり、商業帝国の情報交換の場ともなった。 。コーヒーハウスは、その提供される価格と多くを学べることから、ペニー大学と呼ばれるにようになる。また、この各分野の講義を出版してまとめることもされるようになると、それを求めて客がコーヒーハウスを訪れるようになり、徐々に専門性がでてくる。


例えば、エドワード・ロイドが自身のコーヒーショップ、ロイズで船と船荷の情報を要約したニュースレターを発行すると、関係者が出入りするようになり、関係者はお店の一画をブースとして借りるようになり、最終的に77の出入り業者が集い、開運に関する一大保険市場が形成され、現在でもロイズ保険として世界に広く知られている。

また、コーヒーショップでは私的な株式引受も行われていた。そのうちのひとつジョン・キャスティングが経営するジョナサンズは、後に現在まで続く証券取引所のもとになっている。


先に書いたとおり、フランスでもコーヒーは普及し、カフェが普及する。こちらはイギリスのコーヒーハウスが男性のみを入店可にしたのに対して、老若男女を受け入れ、文化的な啓蒙がよくなされた。それらの華やかな絵画は今なお人々の気持ちを豊かにさせる。また、フランスのカフェも政治とは無縁ではなく、その後1789年7月カフェ・ド・フォアにおいてカミーユ・デ・ムーランが革命の端緒を開くことになったのは周知の事実であろう。

次の章はコーヒーと対をなす飲み物、紅茶の時代についてです。そして時代はさらに現代へと近づき、リアリティを帯びてきます。

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