【本紹介・感想】子供たちの疑問に哲学者たちはどう答える?『子どもの難問』

内容

色んな大人が尋ねられると窮してしまうような質問を、子どもたちはいとも簡単にしてきます。それらについて、大人たちは常識ととらえていたり、あまりにも当然なことだったりするので、向き合うことや考えることを辞めてしまっているのかもしれません。そんな問いに対して子どもたちは真剣に答えを求めます。もし、大人がその場しのぎの答えなんてしようものなら、子どもたちは総突っ込みをいれるでしょう、場合によっては失望されることもあるかも。なぜなら、彼らは真剣に答えを求めていて、適当な答えを望んでないからです。

私たちは、それらの質問を聞かれたとき、期待を裏切らないためにも、日常的に考える必要があるのかもしれません。もし自分だけでは答えを出しずらいと考えるのなら、他の人の意見も聞きながら。この本はそういう質問に対して一つの考え方を提示してくれるものです。今回質問に答えてくれるのは哲学者の方々。

普段、あまり接点のない哲学者。彼/彼女らは様々なロジックを用いて世の中の道理や人間の考えを解明しています。そんな哲学者たちの考え方の一端に触れながら、色んな問いについて一緒に考える一冊です。

子どもの難問

子どもの難問中央公論新社2013-11-08

感想

本書の形式

child communicating with his teacher through the monitor

本書は、まず、子どもから聞かれるような質問(テーマ)を与えられます。そのテーマについて2人の哲学者がついて各々回答を述べるというものです。同じ問い、そして同じ職業の人が回答をしているにもかかわらず、こうも答えが違うのと驚かされます。

回答の中にはたぶん、読者でも予想のできるロジックでこたえられるものもあれば、まったく予想がつかないものもでてくると思います(少なくともいくつかの回答は私の想像の斜め上をいっていました)。

その筋道はある種の頭の柔軟体操になり、そして、様々な回答が許されるんだ、ということの再確認になると思います。

最初の問い、「ぼくはいつ大人になるの?」

大人とは、遥かに遠い思いを抱く存在である

「ぼくはいつ大人になるの?」、これに対する答えは一見簡単です。例えば、参政権や少年法の適用範囲。成人の概念を持ち出せば、年齢に差こそあれ、日本でいう大人は説明できます。

もしくは生物学的に第二次性徴を経て、男女ともに身体的特徴があらわれたとき、という説明もありなんではないでしょうか。ただ、それは本当に大人なんでしょうか?また、子供たちの求める回答はそういうったものなんでしょうか?

本書はそういう話はしていません。

現に本書ではこういう風に話が始まります。40歳になる大人を指さして「あの人はまだまだだ子供だ」とか、中学生になった子供に対して「あの子も大人になった」というふうに。

この場合、上の説明では説明しきれないですよね。法律や生物学の答えはいとも簡単に否定されてしまいました。。。さすが、哲学者です。一見、シンプルそうでとんでもない質問でした。

まぁ、のっけからこんな感じです。

さて、設問の回答者である熊野先生は回答に至るまでにいろんなヒントを読者にくれます。

子どもの「じぶん以外のもの」を考えないという「残酷」な側面をとらえ、じぶんとおなじくらい大切なもの、かけがえのないこと、置き換えのできないひと、そうした何かを知ることが「大人」になる入口になるのでしょう、と。

何となく方向性が定まってきました。重要なのはじぶんを考えるのと同じくらい、大切なものを考えるといった経験が重要なんでしょう。

先生はさらに論を展開していきます。「大人」になるためには、その大切な何かを失うこと、大きな何かを諦めることが必要なのではないだろうかと述べるのです。

そして、そのことによって「切なさ」や「懐かしさ」という新たな感情を手に入れることができると。それは元来子どもが持っていない感情なのです。こういうことを多く経験して「大人」になるのだろうとしています。

なかなかに抽象的かつ具体的な感じです。

一人前の子どもになるという生き方もある

それに対して編者であり、この設問の回答者にもなった野矢先生は「一人前」という概念を持ってきます。仕事ができるようになった彼は「一人前」だとか、彼はまだまだ「半人前」だという風に使われる言葉のことです。

また、法律でも生物でも説明できない言葉です(本当、いじわるですね(笑))。。。

ただ、この「一人前」という概念は微妙に「大人」と重なりません。なぜなら、仕事の出来が「一人前」であったとしても子どもといわれることもあるし、いい大人が経験値を重ねてない場合、「半人前」と呼ばれることがあるからです。

ならば、少し矛盾するようですが、「一人前の子ども」になるという発想は成立するのかと問い始めます。

筆者いくつかの考察を経て、「大人」と子どもの違いは「遊び」にあるのではないかと指摘します。子どもは「遊び」ながら、社会に出る予行演習を行います。そして、子どもは「遊び」の中で多くを学び、ミスすることの悔しさや痛みを学びます。やがて大人になると、その活動は「遊び」ではなく、社会での実践となります。それが大きな違いだと。

ただ、そんなに真剣に社会をとらえると窮屈になるからもっと気楽に考えるよう促します。社会だって人間が作ったものに過ぎない。ならば、それはある種の遊びではないかというのです。

そして、大人の中にも、人生全体を遊びと見切ってしまう人もいる。で、そういう人たちが「一人前の子ども」なんだと野矢先生は主張しています。だから、そういう生き方はあるとも。

そして、彼ら「一人前の子ども」も、子供が「遊び」から真剣に学ぶように、社会の中で真剣に生きている。

だから、仮に「一人前の子ども」になるためには、やはり、一回は「大人」にならないといけないんだろうと諭してます。

面白い考え方ですよね。社会の捉え方次第で大人にも子どもとも呼べる。案外その境界線は私が思っているよりもあいまいなのかもしれません。そして、それをいったり来たりできるのかも。だからこそ、若々しい発想の人もいれば、ひどく老練な考えたの人がいるのかもしれません。いずれにせよ、こういう考え方は私には出来なかったので非常に新鮮でした。でも、こういう斬新な発想や考え方が本書ではいたるところで見られるんです。

興味深い設問の数々

残りのテーマのすべてではありませんが、いくつかをピックアップしながら二人の哲学者のうちの一人のポイントをカバーしていきたいと思います。

「死んだらどうなるの?」

いくつかの自然災害を経てこの設問にぶち当たるのは大人も子供一緒でしょう。回答者は生きている状態とは何か、そして死んだ人との差はどういうものなのかを整理しながら答えてくれます。また、死後の世界についてすべてを頭から否定はしません。なぜなら、それは誰も知らないことだから。また、死の存在や死生観が生きている人にとってどういう役割を担っているかについても考えます。そうすることによって本質を理解することがでできるだろうから。

「勉強しなくちゃいけないの?」

遊ぶときだって、そのルールや上手にできるように勉強します。そして、それは職業もそう。専門的な知識を勉強してその職業のプロとなります。生きていくために人間は勉強しなければならないと説明します。では、それが苦しいのか、そうではないはずとも。たとえば、学者は知ることに喜びを覚え、開発者は開発成果に沸き立つ。医者なら健康な人たちの笑顔に満足感を得、そして歴史学者は新たな史実に興奮します。勉強のうえにこれらがあるのなら、こんな楽しみを逃さないようにすべきではないんだろうかと。

「頭がいいとか悪いとかってどういうこと?」

世の中はごちゃごちゃしています。その中から規則性を見つけて、それをより広い範囲で、より深く理解できる人が「頭のいい」人だといいます。ただし、注意しなければならないのは、私たちがおかれている環境はあまりに多種多様で、「頭のいい」人も特定の分野でしか能力を発揮できないこともあるとのこと。ただ、「頭のいい」ことはスポーツの特定分野が得意なことと同様に意味あることで、そのことを考えれば、伸ばす意味があるともあるものとしています。

今あげたのは本書のほんの一部です。また、どなたかの主張かも書いていません。詳しくはぜひ本書をお読みください。ちなみに他にも「人間は動物の中で特別なの?」、「好きになるってどんなこと?」「過去はどこに行っちゃったの?」、「なぜ生きているんだろう?」、「どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?」、「考えるってどうすればいいの?」、「科学でなんでもわかっちゃうの?」、「悪いことってなに?」、「自分らしいってどういうことだろう?」、「きれいなものはどうしてきれいなの?」、「友だちって、いなくちゃいけないの?」、「人にやさしくするって、どうすること?」、「芸術ってなんのためにあるの?」、「心ってどこにあるの?」、「えらい人とえらくない人がいるの?」、「神様っているのかなあ?」、「哲学者って、何をする人なの?」、「幸せって、なんだろう?」といった質問があります。このうち一つにでも興味を持ったらぜひ手に取ってみてください。

その興味ある質問はもちろん、興味ない質問でも読んでみると色んな発見があるはずです。

全体を通して思ったこと

この本を読むと、上の例でもそうであるように、頭が解きほぐされた気分になります。普段、知らず知らずのうちに、これはこういうものだ、といったように凝り固まった固定観念。それを「子ども」たちの質問を使って柔らかくしていくんです。その結果、色んな事に対して今までよりは少し幅広く物事を見られるようになっている気がします。

また、どうしてこれらのことについてどの子供も聞くんだろうと思うと、それは知らないことで漠然と不安に思うからなんだろうなとも思えるんです。そんな不安は大人も多かれ少なかれ持っていると思います。

この本ではそういう不安に対して、こういう考え方もあるし、こんな考え方もある。でも、答えは一つじゃないし、色んな考え方があるから安心して自分でも考えてみなさいと言っているのかな、とも思えました。

さて、上に挙げたのは最初の問いです。この本ではその後も多くの質問がでてきます。「死んだらどうなるの?」、「勉強しなくちゃいけないの?」、「頭がいいとか悪いとかってどういうこと?」、「過去はどこに行っちゃったの?」とか。

いずれも子どもが質問しそうなシンプルな質問です。でも、どれも回答には苦労しそうなものばかり。それを哲学者なりの視点で回答していくんです。どれもユニークで、でも、どれも奇をてらっていたり、子供を煙にまこうとしているわけではありません。お互いに納得感のある落としどころへ導こうとしています。そのため、文章は語り掛けるようで、また確認するようでもあります。

そのため、文章は時にまどろっこしくも感じるかもしれませんが、それはある意味生徒(子どもも大人も)が惑わせないためとも思えます。しかも、それらを哲学者の視点で回答していくんです。内容紹介のところで書きましたが、一部については

本の概要

  • タイトル:子どもの難問-哲学者の先生、教えてください!-
  • 編者:野矢茂樹
  • 執筆者:雨宮民雄、伊勢田哲治、一ノ瀬正樹、入不二基義、大庭健、柏端達也、神崎繁、熊野純彦、斎藤慶典、柴田正良、清水哲郎、鈴木泉、田島正樹、土屋賢二、戸田山和久、永井均、中島義道、野家啓一、古荘真敬、山内志郎、鷲田清一、渡辺郁夫(五十音順)
  • 発行:中央公論新社
  • 印刷:三晃印刷
  • 製本 :大口製本印刷
  • 初版:2013年11月10日(本書10版*2018年2月25日)
  • ISBN978-4-12-004558-5 C1010
  • 備考:*原文のまま

次の一冊

次の一冊は結構悩みました。この流れで野矢さんをはじめ、この本に携わった人の本を紹介してみたいなとか、子どもつながりで、池田晶子さんの本もいいんじゃないかなとか。いろいろ考えたのですが、少し前に特定の層の間で流行った本もいいのではと思ったんです。ということで、『僕たち、どうして勉強するの?: 「1日30分」を続けなさい! 2』なんてどうでしょう。

僕たち、どうして勉強するの?: 「1日30分」を続けなさい! 2

僕たち、どうして勉強するの?: 「1日30分」を続けなさい! 2古市 幸雄1日30分株式会社2019-08-02

正直言うと、上で紹介された本とはマインドが180度違うと思います。内容は実利的で現実的です。というのも著者の古市さんが典型的なビジネスパーソンだからです。大学卒業後新聞社で経験を積み、海外でMBAをとる。というキャリアを有しています。そんな古市さんが勉強で苦労し、勉強で救われた経験を踏まえて、勉強の大切さについて語っているものです。

ちなみに、本書の中で語られているテーマと“本”の条件検索をすれば、いくつかの本が出てきます。それらの回答と本書を比較するのも面白いんじゃないでしょうか。もちろん、オピニオンショッピングするのではなく、最終的には自分なりの答えを見つけていけばいいんじゃないかなと思います。まぁ、気軽に頭の体操と思いつつ、色んな本にあたってみてはいかがでしょうか。

当サイト【Book and Cafe】では次の一冊に関する短い紹介文を募集しています。お返しは今のところ何もできませんが、ここにSNSアカウント等を記載した半署名記事をイメージしています。要は人の手によるアマゾンリコメンド機能みたいなものです。気になったかたはSNSや下のコメントもしくはお問い合わせ にご連絡頂けますと幸いです。

雑な閑話休題(雑感)

ブックカバーをめぐるよもやま話

いつかの往来堂の風景

この本のブックカバーは根津にある往来堂のだいぶ前のものです。そうです、積読していたものを引っ張りだして読んだものです。

この本を読み始めるとき、ブックカバーを確認して購入した当時のことも思い出せました。そして、同時に往来堂の店内の風景も蘇り、あぁ、あそこに置かれていた本はどうなったんだろう?新しい棚ではどんな特集がくまれているのだろう?とか思いました。そして、この状況が落ち着いたら、また行ってみようと思うとともに、今の状況を頑張って凌ごうとも。

書店さんの中にはブックカバー不要論をいうところもありますが、個人的にはあるとうれしいんです。本は作者や出版社とのつながりにはなるけど、時間をおいてしまうと、本屋さんとの出会いはよほどのインパクトがない限り、薄れてしまうから。

でも、そこにどこのお店のものかわかるブックカバーや栞があるとそのお店を思い出すきっかけになるんですよね。そして、街中で特徴的だったり、知っているブックカバーを見かけると本の中身とともにお店のことがとても気になります。

今ならば、ブックカバーとその特徴を書いてネット検索すると案外お店のことがわかったりして、するといつか行ってみたい書店リストに追加されるんです。そういう楽しみ方もしたりしています。

ちなみにわたしが本とともにブックカバーを撮っているのは、そういう楽しみ方をしている人がいるんじゃないかなと思っているからです。まぁ、ほとんどの記事ではブックカバーの話はおろか、購入したお店についてもあまり言及していませんけどね(一度はしているかもしれませんが、何度もするとくどいかなとも思うので。)。

もちろん現場で働いていらっしゃる店員さんのご苦労やお店の利益率の問題を考えるとおいそれと求めることはできません(個人的には有料化というのもいいのではと思いますが、それもなかなか難しいらしいし)。。うーん、悩ましいですね。

まぁ、何が言いたいかというと、お店オリジナルのブックカバーや栞に注目している人は確実に、少なくともここにいるということを訴えたかったわけです。本屋さん、応援していますよ~。

では、今日も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。また、次の記事でお会いできることを楽しみにしています。

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