【本紹介・感想】人類は酩酊しながら、失敗と進歩を繰り返した『酔っぱらいの歴史』

酔っぱらいの歴史 装幀

中国の神話はエキセントリック

著者にかかれば、中国の神代の歴史だって滑稽に語られてしまいます。神代の王朝末期に王が酒におぼれ、終いには酒池肉林の宴を催したという逸話がよく語られますが、彼らがどうやってそれを律しようとしかたについては語られることが限定的です(酒池肉林のエピソードがあまりにも印象的ですからね)。

彼らも決して無策でいたわけではありません。統治者と酩酊は相性が悪いとわかると、度々自ら(となぜか家臣も)を律するために禁酒令は出されますが、様々な理由から(沢山の美酒に囲まれていたため)すぐに無効となりました。

そして、ここでも酔わない男として有名になった人がいます。かの有名な孔子でです(まぁ、酔わないことではなく、もちろん彼の弟子が広めた教えのわけではありますが・・・)。そんな訳で東西問わず、過度に酔うことは推奨されず、酒宴でも自らを律することが徐々に求められてきたようです。

酔っぱらいの中に真理がある?

ローマ人は地中海を覆うように勢力範囲を拡大しましたが、北への勢力拡大は叶いませんでした。それを実現できたのはワインでした。

ローマの北部を支配していたゲルマン人は調停の際にまずはお酒を飲んだといいます。やがて酔いが回って真意を語りつくしたところで、改めて話し合いを行ったそう。これはどちらかというとソクラテスのお酒に対する哲学にも通じるもの。ただし、先の中国の教えとは違うようです。

統治者は酒を飲むなという教え、また、酩酊の上に真実がある、いずれも正しいんでしょう。とにかく、ワインはとても高貴で美味しいものとして北部へも広まりました。

一方で、粗野なゲルマン民族は村を襲っては、ワインを含む物資を略奪して、田畑に火をつけたりして荒らして回っていたそう。彼らはワインがそこで採れることを知っていたかどうかは別にして、ワイン栽培は受難のときを迎えます。

そして、俄かに脚光を浴びるのが修道院。ゲルマン民族も説得されてキリスト教徒になったために、ここだけは襲いませんでした。キリスト教信徒は村から離れたところに修道院を作り、ここでワインの栽培も続けることとなります。以降、自主的もしくは、時の政権から強制的に取り上げられるまで、修道院はワイン造りの拠点となりました。もちろん、信徒は労働力であり、同時に消費者でした(戒律は節度を持った飲酒を求めましたが、それが守られていたかは不明です。)。いずれにせよ、当時の森は鬱蒼としていて、川の水も淀んでいたところが多かったため、飲み水には適さなかったよう。そのため、農民はエールかワインを普段から飲んでいました。労働の後に一杯、時には数杯、そうでないとブドウ栽培の労働に耐えられませんでしたから。

北欧神話の主神は希少なワインを愛する

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By Lorenz Frølich – Published in Gjellerup, Karl (1895). Den ældre Eddas Gudesange, p. 7. Photographed from a 2001 reprint by User:Haukurth., Public Domain, Link

北欧神話の主神オーディンは生きるために、ワインしか摂取しなかったらしい。

ワインはヨーロッパの南部で作られるため、北欧では珍しいものでした。そして、その珍しいものを所有していることは富と権威の象徴となりました。当時の北欧ヴァイキングの支配者はミードホール(蜂蜜酒のことをミードという。ただし、ほとんどのミードホールではビールしか提供されなかったよう)を作り、お酒を振舞い、権力を誇示したという。

ヴァイキングのミードホールはかなり荒れていたらしい。何せ、叙事詩『べオウルフ』の主人公べオウルフは飲酒中に友人を殺さなかっただけで讃えられるのだから。これはソクラテスや孔子が酒の場で酔わなかっただけでなく、講釈をきちんとしたのよりはハードルが低そう。ヴァイキングは浴びるほど飲むと、家に帰ることなく眠りについた。ただし、酔っぱらった治世者の命はいつの世も狙われるらしく、この瞬間を狙って焼き討ちも結構起こったそう。酒は身を亡ぼすを地でいったみたい。

ロビン・フッドはエールハウスにはいなかった?

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By David Teniers the Younger – Picture taken at: National Gallery of Art, Washington, D.C., USA, Public Domain, Link

そして、日本人にも馴染みがあると思われる中世(12-13世紀)のエールハウスへと話題は移っていきます。舞台は獅子心王リチャード1世や義賊ロビンフッドが活躍していたイギリス(正確には二人の生きているときは若干の違いはあるかもしれないけど気にしないでしょう。一人は実在したかも怪しいわけですし・・・)。

何せ、有名俳優が挙って彼らを演じたり、彼らにちなんだ作品が今なお作られているんですから(これ、演じた俳優で世代がばれますよね。ちなみに最近また新しい作品ができたらしいですよ)。

でも、残念ながら、村の中央に描かれるインやタヴァーン(ちなみにyoutubeでRobin Hood Tavernで検索すれば該当シーンが出てきます)で陽気に仲間たちとエールを飲むことや、エールハウスで杯を交わすなんて光景は、まだ存在しなかったようです。

そもそもインは馬を預かる施設を有した高級宿泊施設で、一般的に言われているパブの発祥ではなかったし(イギリスでは一般的にそう解釈されているらしい・・・)、シェイクスピアの作品で登場するボアーズヘッド亭(Boar’s Head Tavern)で知られるタヴァーンも輸入品で高級なワインを置く店で当然のように都心にしかなかったのだから、義賊ロビンフッドは決して利用しなかったそう。

さらには当時のエールはそもそも生活の一部だったために、対価を払って飲むものではなかったようです。そんなんだから、エールハウスなんてものが存在するはずはないとのこと。

エールハウスが確認されるのは14世紀中頃に入って、①教会が教会での飲酒を禁止したり、②農場経営方式が変わり、小作人に農場を貸し付ける方式になったり、③その挙句にホップから作られるビールができて、ある程度商業的に貯蔵が可能になったからだそう。

この章に限らず、この本は、私たちが漠然と持っていた間違った昔の飲酒に対するイメージを丁寧に修正してくれます。こういうのを知っていると洋画や海外ドラマがより楽しめるかもしれません。最近の作品は特にディテールに凝ってたりしますからね。

ちなみに、著者によれば、シェイクスピアが彼の作品のなかでエールを飲ませていたらそれはそのキャラクターに対する侮蔑を意味するとまで言い切っています。そしてシェイクスピア自身は多くのタヴァーンに立ち寄っていてワインを愛飲していたとか。何やら庶民的ではない雰囲気ですね、、、これはシェイクスピア作品を見直す必要があるかもしれません。。。

いよいよ狂わされる人類

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By William Hogarth – BeerStreet.jpg and GinLane.jpg, Public Domain, Link

人類はお酒によってその生息域を広めました。ただ、蒸留酒が広まるようになると、深刻な社会状況を生むことにもなります。

蒸留酒、特に大麦やライ麦を原料とするジンについては自発的というよりは当時の王がオランダ出身のウィリアム3世だったところによるところが大きいそう。

王が好んで飲んだこと、英蘭で共同戦線をはり、そして宗教的にもプロテスタントだった両国の兵士は一緒にジンを楽しむ機会があったそう。その結果、国民にもジンという飲み物が広まったそう。

一方、このこと自体は政府にとっても好ましいことでした。農民にとって不作の年は農作物の供給が絞られ、価格があがる。にもかかわらず、労働時間は減るため、特に問題にはならなかったそう。しかし、政府と都市部にすむ貧民には違いました。収穫高が減れば、政府の税収は減り、王政の維持はままならなくなる。貧民はもっと深刻で、日々の食事にありつけなくなるのです。それにもかかわらず、農民は余剰農産物をどこにでもまわすことができなかったため、供給を増やすことはありませんでした。そこで余剰生産物の回す先として注目を浴びたのが、このジンでした。

ただ、当時のイギリスにとって問題だったのは、先にこの解決策に目を付けた農業大国フランスとその蒸留酒ブランデーの存在。そのため、フランスとの戦争は酒の観点から見ても必然だったそう。


1700年のロンドンはヨーロッパ最大の都市で、人口60万人ほどだったとのこと。ちなみに当時のイングランドで人口2万人を超えた都市が3つしかなかったことから、それがどれほど異常な大きさだったかわかります。

ロンドンは地方民にとって一攫千金を実現できる夢の都市でした。ただ、成功する人がいれば、失敗する人もいます。その結果、ロンドンのウェストミンスターやイーストエンドにはそれらの人によるスラム街ができました。彼らはつらい現実を忘れるために安価ですぐ酔えるジンを必要としていました。

ジンはどこでも、いつでも、誰からでも手に入りました。当時のジンは2度蒸留していて80度近いアルコール度数を誇ったともいわれます。彼らはそれを1/4パイント(1パイントは約600ml)飲んだといいます。中には数パイント飲んだ人も。前者ですら身を崩すのだから、後者を待ち受けるのは死です。また、貧民の中にはジンを得るために娘を売ったりするものもあらわれました。

明らかに今までの飲酒風景がどこか牧歌的だったものに比べて狂気の沙汰を帯びるようになっている気がします。ちなみに上の絵、左はビールを通りで飲んでいる人たちで、右側がジン浸りになった人たちです。なかなかにデストピアです。

この結果、都市部の支配階級は市井の彼らを恐れるようになり、厳格な社会的断絶もできてしまったという。そして、支配階級は彼らをイングランドから新大陸へと送り出す合理的な案を思い付く。だからか、どうかわからないけど、新大陸では酒飲みが多い印象があるのかもしれません。

ちなみにこのあとイギリス本土では、ジンに対する禁止令が出されるまで民衆はジンに熱狂することとります。


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