【本紹介・感想】名作の原文とともに考える『翻訳ってなんだろう』

鴻巣友季子著『翻訳って何だろう』

内容

本書は著者である鴻巣さんがNHK文化センター青山教室にて行った翻訳講座『訳して味わう傑作10選』を主な下書きとして、大学での講義や講演等を参考に執筆したものです。そのため、どの章もとても柔らかい語調で、まるで生徒と対話するようなかたちで書かれています。

本書の中で、鴻巣さんは、翻訳者は原文を読みこんで解釈をしているため、翻訳行為は一種の批評ともいえると主張しています。一方で、翻訳行為は作品の論評ではないとも。では、翻訳行為とは一体何なのか。鴻巣さんは翻訳行為が、原書を自らにインプットし、同時に翻訳作品として自らアウトプットする“体を張った読書”だと解釈しています。

さらにフランスの翻訳学者アントワーヌ・ベルマンの言葉を引用して批評と翻訳について、“批評が作品へのかぎりない接近だとすれば、翻訳はその作品を体験することとなる”と表現しています。そのうえで、だからこそ、翻訳には精読するだけはでは味わうことのできないスリルがあると述べています。

そんな持論を持つ、鴻巣さんは本書でそのことを実証すべく、実際に読者と共に以下の10の名作を取り上げて翻訳を体験することとなります。

①モンゴメリの『赤毛のアン』。アンの使う難解な英語に隠されているものとは。②ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。英語の言葉遊びを訳すときに大事にするべきこととはいったい何?③エミリー・ブロンテの『嵐が丘』人称代名詞を変えると物語の雰囲気が一気に変わる?。④エドガー・アラン・ポーの『アッシャー家の崩壊』。原文の長く遠回しな文章に潜む恐ろしさとは?。⑤サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。口癖からわかる主人公の心境とは。⑥ジョージ・バーナード・ショーの『ピグマリオン』花売り娘イライザが得た「完璧な英語」から垣間見られる彼女の心の悲鳴とは。⑦ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』。前衛的な文章に潜む視点の移動を追えるか。⑧ジェイン・オースティン『高慢と偏見』。紳士淑女の敬称と女性たちのマウンティングの嵐。⑨グレアム・グリーン『情事の終り』。こちらは行間に潜む男性たちのマウンティング。⑩マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』主人公の暴走っぷりに思わず突っ込むナレーターの関係。

いずれの章も、A物語全体と翻訳部分の前後のあらすじ、B翻訳における注意点と指示、C課題翻訳文(1or2)があり、その後に解説があります。課題文の全訳は最後のほうにまとまってありますので、まずはご自身で翻訳してみて、答え合わせをするといいのではないでしょうか。きっと、鴻巣さんのセミナーに仮参加した気分になれると思います。

これをきっかけに原書に手を付けるのも面白いかもしれません。多くの原書はすでに著作権がきれていて、ウェブを検索すればPDFファイル等が手に入るものも多くあります。また、古典ということでpenguin booksやHarperCollinsのペーパーバックを取り寄せて、折り曲げながらじっくり読む、なんてのもおすすめです。いずれの場合もぜひ著者が言う“体を張った読書”の続きをやってみてください。

翻訳ってなんだろう? (ちくまプリマー新書)

翻訳ってなんだろう? (ちくまプリマー新書)友季子, 鴻巣筑摩書房2018-06-06

感想

「翻訳」と「英文和訳」のちがい
Photo by João Silas on Unsplash

本書の冒頭、著者である鴻巣さんが「翻訳とは何か」について書いています。その中で「翻訳」を際立たせるために「英文和訳」との比較を以下のように述べています。

①学習成果を確認することが求められているか、②不特定多数の読者の有無、そして③読者が原文を持っているかどうか、です。これらがあるとないとで取り組むスタンスや制約・自由度も異なりますよね。こんなふうにわかりやすくも、すこしハードルを設けつつ、本題へと移っていくのですから、本文への期待と不安が入り混じりました。

翻訳で大事なこと

実際読み進めると、翻訳家が翻訳にあたって気にかけることの多さに改めて驚かされました。文章の構造はもちろん、前後関係、作者のほかの作品との関係、古典からの引用の可能性、当時の文化的な背景や言葉の歴史的変遷等々、様々な知識がこれでもかというほど各課題文で問われるのです。これらのことについては何となくわかっていたとしてもいざ自分が小説の原文を前にして翻訳を試みようとするとなかなか難しいんだなと思い知りました。

ただ、これらの作業はご本人があとがきで書かれているように普段必ずしも意識的に行っているわけではないとのこと。長年にわたって翻訳を行っていく自然とおこなうもので、今回、講座等の中で受講生との対話をまとめる中で明文化できたそう。いわゆる、翻訳家も高度な職人芸なのかもしれません。いずれにせよ、多くのステップを経て翻訳作品は出来上がっていることがわかります。

また、鴻巣さんは口を酸っぱくして言っていることがあります。それは翻訳家に求められる日本語のセンス10%、それは最後に必要なものだということ。翻訳家に必要なのは異文化に対する知識や語学に対する強い興味だといいます。そして、翻訳する際にとことん調べぬく力が必要としています。

また、翻訳に際しては、いきなり「巧みな訳文」を目指さず、的確でフォーカスのあった訳文を目指すべきとも主張しています。語尾のリズムを気にするあまりに時制が変わってしまうと骨子が崩れてしまい、本来の意味が伝わりないこととなります。それよりは確かな読みをすべきといっています。

さらに、訳者は原文に対して能動的に関わり、コミットしたうえで、偏った主観をなくして翻訳することが望ましいとしています。そのうえで、定型詩や韻等の訳しにくいものについて取捨選択することはあり得るものの、それまでにはきちんとプロセスを経る必要があるともしています。

つまり、翻訳プロセスにおいて妙技というのはなく、きちんと本文とその周辺知識を得たうえで丁寧に訳すことが大事ということだと思います。

私自身も社内資料を作る際についついこなれた訳文にできないかと気になってしまう質だったので、このスタンスには改めておもうところがありました。もちろん、これは鴻巣さんの翻訳スタンスなので異なる立ち位置の人もいらっしゃると思いますが、個人的には非常にいいなと思うスタンスでした。

課題文の難易度と順番

さて、本書の課題文について真っ向から触れるのは読む際の醍醐味を奪うことになりかねないのでそれは置いといて、読者として順番について思ったことをコメントしておきたいと思います。

まず、読む順番は興味がある順でいいと思います。前後の流れは多少ありますが、ほとんど気にしなくても大丈夫です。それよりも興味がない本の課題文の翻訳に取り掛かって読書が中断してしまうほうがもったいない気がします。

個人的につらかったのがポーの作品です。いや、本当につらかった。文章がピリオドなく、カンマやバーでどんどん続くんです。しかも内容が陰鬱な場面だったので気持ちも何となく重くなってしまいました(笑)。しかも日本語にしてもなかなか意味が入ってこず。。。もちろん、それは自身の力不足でもあるわけですが。。。なので、読了後、個人的にはこれを最後に読めばよかった、と思いました。

あとは、訳す際にはテクニックはいるかもしれないけど、どれも内容も単語も比較的平易でした(決してうまく訳せたとは言っていません)。そのなかでも優しいのはアリスや赤毛のアンといった児童文学だと思います。もちろん、これもとらえようによってはテクニックが必要なのですが、アリスでは言葉遊びをどのように解釈するか、そして赤毛のアンでは主人公が背伸びをしている大人のような振る舞いをしているさまをどう翻訳に盛り込むかなど、テーマを素直に楽しめました。

例えば、原文はダジャレとして書かれているものはどのように訳せばよいかというもの。紹介された文章は

 

Did you say “pig” or “fig”?

鴻巣友季子著『翻訳ってなんだろう?』Page 47、原文はルイス・キャロル『不思議の国のアリス』

という簡単な一文。これはチャシャ猫がアリスに遊び心を込めて問いかけたセリフです。課題文ではありませんが、本書にはこういうクイズ形式の文章もあちこちにちりばめられていて興味が持続するようになっています(教科書でいうとミニコーナーみたいな感じかもしれません)。

これに対して講座に参加した人たちの回答案として以下の訳文が紹介されていました。ちなみにfigはイチジクです。

「豚っていったの?蓋っていったの?」

「豚っていったの?札っていったの?」

「豚と言ったかな?葡萄といったのかな?」

「ブタと言ったのか?ブッタと言ったのか?」

最初の二つは音を大事にしたもの。三つめは音に加えて、植物として似ているものを出してきています。そして、三つめはチャシャ猫の唐突感に加え、おしゃか様が悟りを開いた菩提樹がイチジクの一種だということを考慮した訳文として紹介されています。こんな簡単なダジャレでも踏み込もうとすれば、ここまで豊かなものになるというのは驚きですよね。ミニコーナーで、これなのです。課題文の考察は当然これ以上のものがあってどれも楽しいものでした。

全体を通して、原文に込められた作者の意図と、それをどうやって訳文に反映するか葛する役者の様が垣間見られて、とても面白くも勉強になった本でした。翻訳家を目指す人にも、まったくそうでなく、翻訳本を読む人にも勧めたくなる一冊でした。。

 

本の概要

  • タイトル:翻訳ってなんだろう?-あの名作を訳してみる-
  • 著者:鴻巣 友季子(こうのす ゆきこ)
  • 装幀:クラフト・エヴィング商會
  • 発行:筑摩書房(ちくまプリマ―新書)
  • 印刷・製本:株式会社精興社
  • 第1刷 :2018年6月10日
  • ISBN978-4-480–68323-6 C0280
  • 備考:ちくまプリマ―新書301

関係サイト

鴻巣さんのフェイスブックページではご自身がなされた翻訳本の紹介以外にも、エッセイストととしての活動、その他トークショーなどの開催告知がなされています。ただ、告知以外にも翻訳時のこぼれ話や、今でも続けている英語学習の話、また観劇の話などもアップされています。多方面にアンテナを張ってらっしゃる方なので、いろいろと刺激を受けると思います。時間のある時にご覧になってはいかがでしょうか。

次の一冊

鴻巣さんの翻訳の取り組み方について少しだけ本書でわかったんではないでしょうか。鴻巣さんはこの本のほかにも多くの著作をお持ちです。なので、さらに鴻巣さん流の翻訳について学んでいくのもいいかと思います。

一方で翻訳についてある程度のルールやお作法があれど、やっぱり人によってとらえ方は様々。だから鴻巣さんと片岡さんが対談した『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』などいかがでしょう。

翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり

翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり鴻巣 友季子左右社2014-07-15

この本は第2弾もでていてそれぞれのスタンスが微妙に異なっているところが感じられる、面白い本だと思います。

当サイト【Book and Cafe】では次の一冊に関する短い紹介文を募集しています。お返しは今のところ何もできませんが、ここにSNSアカウント等を記載した半署名記事をイメージしています。要は人の手によるアマゾンリコメンド機能みたいなものです。気になったかたはSNSや下のコメントもしくはお問い合わせ にご連絡頂けますと幸いです。

雑な閑話休題(雑感)

翻訳本を読むとき、個人的に気になるのが注釈の充実度です。何気ない文章に注釈が振っていて原典が掲載されていたり、当時の時代背景を踏まえた訳等の解説がなされているとうれしくなります。また、関連書の紹介も知識に厚みができるという意味では望ましいのかなと思います。もちろん、翻訳小説の一巡目はそんなことを気にせずに没頭したいところですが、後々読み返したとき、そういう情報があるとより心に残ったりするんですよね。

本当はこのサイトでも本の中で紹介された本や引用についての紹介も行ってみたいとも思っているのですが、それをやってしまうと本を読む楽しみを奪うことにもなりかねないかなと思っているので現状は控えています。ただし、個人的には引用や参考文献を知っていてもそれらを用いた本を知らないということも多々あると思うので読者の新規相互交流にもなるのかな、なんて思ったりもすると、やってみたいなとおもうこともしばしば。

いずれにせよ、現時点ではこのようなフォーマットでとどまっていますが、少しずつ様々な項目が紐づけられるようなサイトへ少しずつ育てていきたいなと思っています。

ということで今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。また次の記事でお会いできるのを楽しみにしております。

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