内容
本書は京都を中心にコーヒーショップを構えるイノダコーヒの創業家出身の猪田彰郎さんの語りをまとめたもの。
猪田彰郎さんはイノダコーヒ三条店初代店長で、創業者の猪田七郎さんとは叔父・甥の関係です。猪田彰朗さんは15歳でイノダで働き始め、37歳で三条店の店長を任されてから、退職する65歳になるまで継続して店頭に立ち続けたことでも有名な現場職人です。引退されてからは、全国の点在するファンからの要望を受け、全国を巡ってコーヒーの淹れ方等をレクチャーされています。
この本ではそんな猪田彰郎さんが約50年にわたってイノダでどんな修行をしてきたか、そしてどのように三条店に愛を注ぎ、店を大きくしていったか、また繁盛させるためにどんなことに気を使っていたかを丁寧にまとめています。
ともすれば、ノウハウ本なのか、と言われそうですが、この本はただのノウハウ(テクニック)本でも、トレンド本でもありません。最近めっきり減った「昔ながらの」コーヒーマスターが自らの声でどうやって生きてきたかついて書いた本です。
巷ではすっかり新しく、おしゃれなコーヒー文化が息吹いていますが、かつて日本の至るところにいたであろうコーヒーマスターの、その代表する彼の語ることには非常に多くの含蓄がありました。そんな一冊を携えてお気に入りの喫茶店やカフェで読んでみてはいかがでしょうか。きっとその店の新たな側面に気づけるんじゃないかと思います。
猪田彰郎 アノニマ・スタジオ 2018-12-04
感想
全体を通して
猪田さんの珈琲哲学がよくわかる本になっていました。本自体は聞き手が数度にわたるインタビューを経て、丁寧に編纂されていて、文章からは猪田さんの人柄がよく伝わってくるようでした。また、本のボリュームはそんなに多くなく、喫茶店で1時間集中すれば読み終えられるほど。でも、その途中にはいくつものこみあげてくるポイントがありました。こういうのが豊かな人生なんだなと思えるほどに。
さて、次からはそんなことを少し振り返りながら、本の紹介をしていきたいと思います。いつものことながら、ダイジェスト化をするのが目的ではなく、こんなことが書いてあったという紹介にとどめます。で、興味がわいたらぜひ本を手に取って、イノダスピリットを感じてください。
おいしいコーヒーを淹れるために
第一章ではイノダコーヒ三条店を任された彰郎さんが三条店を繁盛させるために実現したかった味、そしてそれを実現しているコーヒーの淹れ方について丁寧に解説しています。帯には次のことが書かれています。
おいしいコーヒーを淹れるんは難しくないんです。
大事なんは、技術よりも、気持ち。
そやから、どなたでもおいしく淹れられます。
だからといって何も技術的な工夫をしていないわけではありません。イノダの本店ではネルで15杯分を225gの粉でとっていたそう。それをベースに自分なりの淹れ方を研究。そして作り上げたのが今に続く、お玉でネルにそそぐ方法だったそう。その淹れ方で実現できるのが「軽くてキレがよく、それでいて、イノダコーヒらしく、しっかりコクがあるもの」とのこと。
長く商売の秘訣
第二章では猪田彰郎さんが商売を長年続けるうえで大事にしてきた九つのことを紹介しています。その9つは以下のこと
1. どんなときも笑顔でいること
2. おいしいコーヒーは雰囲気がこしらえる
3. よく聞くこよ、よく見ること
4. いつも清潔であること
5. 丁寧にてをかける
6. ご縁を大切にする
7. 目標になる人を作る
8. 一生懸命にやりとげる
9. 迷ったときは、原点に戻る
どれも当然のことのようですが、この章で猪田さんが自ら語る各々のエピソードトークが説得力を増してくれていました。小タイトルから想像つくこともあると思いますが、ご自身の経験から推測しながら読んでみると面白いと思います(この辺は哲学なので納得できるもの、できないものあるでしょう、だからこそ面白い)。
イノダコーヒってこんなところ
第三章はイノダコーヒの歩んだ道と当時の状況についてです。昭和15年に猪田七郎が「各国産珈琲卸 猪田七郎商店」として京都に開業したこと、そして戦争で閉業、戦争が終わると運よく家に残っていた機械と生豆を使ってイノダコーヒ店を始めたこと。その当時の焙煎の方法など。どれも今のコーヒーショップを考えると、とんでもない方法で行われています。
その後、三条店の話に移っていきます。例えば、今では当たり前のように見かけるようになりましたが、当時オープンキッチン型の作りや朝の営業を行っている店舗が珍しかったこと、そしてそれらが受け入れられるように何をしたか書かれています。それと並行するように行っていた出張販売営業など、当時から面白いことやっていたんだなと思わせるエピソード等も。
あとごく自然と紹介されるひいきにしていた文化人の層の厚さにもびっくりさせられます(またその人たちの行動が粋なこと!!)。京都で撮影所や舞台があったり、大学があったりと、色んな要素があったんでしょうけど、これだけの人たちが通ったというのは本物のコーヒーにこだわったり、猪田さんが努力し続けた結果なんだろうなと思うばかりです。
ただ、全体としては単なる自慢話や押し付けがましい内容となっておらず、当時の風景を思い出しながら語るため、子どものころに祖父から語られた話のような雰囲気を持っていました。この章はイノダコーヒーのみならず、京都の戦後コーヒー文化史を知ることができる貴重な章でした。
イノダコーヒから広がる精神
第四章では猪田彰郎さんゆかりのコーヒー店の紹介。イノダコーヒの業歴が長いわけですから、そこから巣立っていった従業員もいるわけです。この章ではそんなお店の店主に対してインタビューが行われています。それにもかかわらず、文章は相変わらず温かい雰囲気を帯びていました。それは上でも紹介した猪田さんが大事にしてきた精神がしっかり受け継がれたからなのでしょう。
本書で紹介された喫茶店は、猪田七郎さんとも縁があって、彰郎さんが全国でコーヒー教室を開いた際に使うコーヒー豆『Akio Blend』の焙煎をお願いしている『はしもと珈琲』や、彰郎さんの三条店で多くの時間を過ごした方が店主をされている『市川屋珈琲』。それぞれ心温まるエピソードトークを披露しつつ、ご自身がそこから感じ取った精神で経営されているお店の紹介もされています(いずれもいつまでも地域に愛されるお店なんだと思います)。
京都には多くの名所・景勝地があります。ただ、それに負けず劣らず、多くの名店があります。この本で紹介されているお店も含め、本を一冊買って名所めぐりの合間にそんな喫茶店でコーヒーやお茶を楽しんでみてはいかがでしょう。きっと素敵な時間になると思います。そして、この本を読んだ後なら、なおのこと忘れられない体験となるのではないでしょうか。この本はそう思わせてくれる本でもありました。
本の概要
- タイトル:イノダアキオさんのコーヒーがおいしい理由
- 著者:猪田彰郎
- 企画・編集:宮下亜紀
- 聞き書き:内海みずき
- デザイン:天地聖(drnco.)
- 写真:石川奈都子、柴田明蘭
- イラスト:原田治(表紙とブレンドの袋のロゴを担当。この本をウェブで紹介もしています→)
- 編集担当:村上姫佐子
- :アノニマ・スタジオ
- 発行:KTC中央出版
- 印刷:シナノ書籍印刷株式会社
- 第1刷 :2018年11月20日
- ISBN978-4-87758-789-5 C0095
- 備考:表紙の言葉:Life with Coffee. Life is good with a good cup of coffee アノニマだより30同封
関係サイト
イノダコーヒのウェブサイトに自身が掲載された書籍等の紹介ページがあります。そこでは実際の記事の中身も見ることができるのでまだ訪れたことのない人は覗いてみてはいかがでしょうか。体験した感じになってテンションが高まると同時に、京都のカフェ巡りをしたくなること間違いなしです。
次の一冊
アノニマ・スタジオでもう一冊と考えたのですが、何となく京都喫茶店つながりで六曜社の本を紹介しておきます。
京阪神エルマガジン社 2020-08-31
こちらはこの本とはだいぶ雰囲気が違います。戦後の混乱期を経たコーヒーショップというのは同じだし、コーヒーに真摯であるというのは同じなのですが、コーヒーショップと喫茶店という違いがあるのか、それともそれ以上にコーヒーとの向き合い方が違うのかもしれません。個人的にはどちらがいいというわけではなく、日によって、または気分によって使い分けれられる京都の人がうらやましいという感じでしかないわけですが、ということで過去記事にもしているので興味がわいた方はぜひ。
あと著者の猪田彰郎さんがコーヒーを淹れるシーンがYoutube上にありましたので併せて紹介しておきます。
大胆でありながら、どこかきちんと人を思いやっているような丁寧な淹れ方は健在のようです。そして映像からも人柄の良さが伝わってくるものがありますね。
雑な閑話休題(雑感)
本を改めてよむことになったきっかけ
この本はだいぶ前からとあるコーヒー好きの書店主さんに教えてもらって購入を保留していた一冊でした。で、今回改めて購入したきっかけがイノダコーヒの2022年9月27日付プレスリリースにも掲載されている事業承継に伴う株式譲渡のニュースがきっかけでした。
イノダコーヒは規模がある程度大きくなって、京都以外の大手デパートにも店を構えたり、期間限定ショップを色んなところで行うようになりました。並行して、中小・零細ロースターからステップアップにあたっての設備投資や従業員教育に人材や時間を割く必要が出てきたんだと思います。すると必要となるノウハウは膨大となり、人材不足は否めなかったのかもしれません。そして今回の決断に至ったんだと思います。
そんなニュースを読んで、改めてイノダコーヒーの創業からの歴史を振り返ってみたいなと思い、この本を手に取ってみました。今回資本参画したアント・キャピタルは中規模の買収等を得意とするファンドで、イノダコーヒが必要とするノウハウに長けています。イノダの理念を継承しながらも新しいDNAを組み込んだコーヒーショップとして飛躍できるといいなと考えるばかりです。
にしても、日本には似たように事業継承の課題を抱えるコーヒーショップは多いのではないでしょうか。コーヒーショップやカフェブームは数年ごとにあったといわれ、少なくともその最初の方の世代は代替わりを迎えたか、迎えつつある世代のはずです。
それらがどういう決断をするのか、そしてそのブランドは続くのかどうかについても興味深いところです。一方で、こういう地域のコーヒーショップをまとめて育てていくファンドもそのうちでてきそうなところですが、どうなんでしょうか(もちろん、イノダくらいの規模がないと効率は悪そうですが、こ個人的には気になるところではあります)。この点も情報をフォロー、更新してきたいと思います。
今日も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。