【本紹介・感想】私は何にも縛られなくてもよい『アイデンティティが人を殺す』

アイデンティティが人を殺す 装丁

内容

自身のルーツ、アイデンティティを探るという言葉を聴きます。家に伝わる家系図や古文書を調べて探るという古典的な方法をとる人もいれば、今ではDNAキットを使ってルーツを探るという人まで。

移民の坩堝であるアメリカでは自身の祖先はどこから来たという話をよく聞きます。アフリカンなのか、アングロサクソンなのか、それともイタリアンかアイリッシュか。

人種や土地的なルーツ以外にもカソリックかプロテスタントか、それともセブンスデイなのか、それともシーア派かスンニ派か、宗教的なルーツは社会にでるとあまり話題にならないかもしれませんが、学校では自身と回りを知るための課題として生徒に与えられることもあります。

一方でこれらにアイデンティティを希求するとどのような結果になるでしょうか。ひとつのアイデンティティに多くを依存した人たちの結果生じる多くの不幸な結末を私たちは知っています。

民族や肌の色、そして宗教の違いを強く刷り込まれられたり、自覚しすぎる結果、仮にその属性を否定されたとき、その責任を他者の属する集団に求め、衝突が起きるのです。

この本ではどういう背景でそのような衝突がおき、そして、それらを回避するために何ができるのかについて、筆者の身の回りで存在する、もしくは研究した事案等を紹介しながら具体的に検証しています。

グローバル化が進み、多くの人々が世界中を移動することで生ずる衝突に対し、真っ向から向き合い、筆者なりの処方箋をこの本で書き示しています。

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)アミン マアルーフ筑摩書房2019-05-09

内容をまとめながら、感想

あらすじ

本書は6部(5部)から構成されています。目次のローマ数字自体はI~IVです。これに、「はじめに」と「おわりに」がついてきます。まず第一部でレバノンで生まれ、青年期にパリに移り住んだ筆者のことについて説明します。この章によって筆者がどの立ち位置から持論を展開しようとしているのか明確にしています。第二部では、特にイスラム圏における西洋との出会いについてです。西洋的”近代化”が遅れていた、当時の文明がいかに西洋文明との折り合いをつけようかについて説明しています。そして第三部で、社会主義が崩壊し、資本主義も万能ではないことを知った人たちが宗教や民族にアイデンティティを求めているのではないかと展開しつつ、第四部でこれらは暴力的ではあるものの、ヒョウのように飼いならすことができると説いています。

冒頭であえて目次の四部建てと説明せずに、5or6部と書いたのはこの2つがほかの四部と同じくらい大切に見えたからです。とくに結論だけを知りたい人は「おわりに」を読めばある程度は理解できると思います(というか背表紙のあらすじにその鍵は「言語」だとも言ってしまっていますが・・・)。

はじめに

Photo by Luis Quintero from Pexels

本書の冒頭でアイデンティティという言葉は偽りの言葉だと作者は断言しています。肌の色にせよ、宗教にせよ、民族にせよ、特定のルーツを突き詰めていって自身の根源が○○だと断定して、それ以外のことを否定してしまうのは非常に危ういこういであることも指摘しています。

では筆者はどういう根拠をもとにこういうことをいっているのでしょうか。筆者は具体例をもって答えています。アイデンティティの異なるもの同士、例えば宗教の異なる者同士が結婚した場合、その子供はどうなるのでしょう。片方の宗教に属していたとしても、もう一つの宗教の影響を完全に受けないことはありえないはずです。また、減の場合も同様です。父からも、母からも異なる教育を受けるバイリンガルやさらに成長過程で言語を学ぶトリリンガルは必ずしも珍しくありません。であるならば、彼・彼らにとって単一のアイデンティティを選択するのは難しいはずです。

それにも関わらず、私たちは自身の属性を「選ぶことを要求され」、「命じられ」る感覚に陥ります。それは誰のせいでしょう。宗教家や狂信者のせいでしょうか、それとも排外主義者によってでしょうか。決して外的要因だけではないのです、自身の中にもアイデンティティを求める誘惑があるのです。

一人一人の心に深く根付いてしまった習慣的な思考と表現ゆえにアイデンティティはただ一つの帰属しかないと思い込んでしまっていしまっているんです。この本ではその考えがどのように醸成されたのかについて考え、現代においてどのようにアイデンティティと向き合ってよいかについて記しています。

多様なバックグラウンドを持つ筆者

Image by Michael Gaida from Pixabay

そんな主張をする筆者はレバノンのベイルート出身。両親共にキリスト教徒で、彼自身もキリスト教徒です。しかし、現地で使われているアラブ語を母語とし、また、文化的にも中東地域の影響を色濃く受けています。彼のアイデンティティは、宗教、文化、言語、いずれもがモザイクのように複雑なのです。

そして、冒頭で紹介された異文化間の両親のもとに生まれた子供のアイデンティティがそうであるように、自身のアイデンティティについても一つに帰属しないと明言しています。そもそも彼にとってアイデンティティとは生得的なものでなく、気づくこと、教え込まれることで醸成されるものと主張します。

今度は例として、同じバックグラウンドをもって生まれた黒人の混血児を挙げています。この混血児が仮にアメリカで生まれた場合は黒人として分類されるでしょう。なのに、アフリカ等の地域で生まれた場合は混血と分類されるとのこと(直近ではアメリカでももう少し詳細な分かれ方をしていそうですが・・・それは脇においておきましょう)。生まれた地域によってこのような分類の差異が生じることは、人種というアイデンティティが後天的なものだという証左なのです。

混血児の例はやや特殊かもしれません。しかしながら、このようなモザイク的なアイデンティティを持つ人は多くなりました。

今日、多くの人が世界を跨いで仕事をするようになり、従来の居住地と異なる場所に住む人が増えてきました。また、国境をまたいで多くの移民が発生するようにもなりました。その結果、異なるバックグラウンドをもつ人たち同士が接触する機会が増え、絶え間ない緊張状態、場合によってはいざこざがあちこちで発生しています。

そして、個人が帰属していると考えている自身の宗教や民族として排除されたと認識すると、生涯にわたってそのことに関するトラウマを抱え、他者に対して攻撃的になりやすいという。では、このようなことを許容すればいいのでしょうか。筆者は安易な許容は特定の人にとって妥協や迎合のように映るとも指摘しています。では、どのようにすれば衝突は回避できるのでしょうか。

筆者は受け入れる側、受け入れられる側、双方に不断の努力が必要だと言います。受け入れる側は彼らの境遇やバックグランドを理解すること。彼らの文化を理解して、なぜそういう行動をとるのか、そして何が彼らにとって譲れないことなのか等々、多くのことを学ばなければいけないとしています。

また、受け入れてもらう側も、自身を受け入れるのは当然の権利というふうに捉えて傍若無人にふるまうのではなく、現地の風土や文化を学び、尊重しなければいけないと主張しています。

つまり、最初から殻に閉じこもって批判しあうのではなく、お互いを理解し、心を開いてこそ、お互い批判を受け入れる準備ができるということです。

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